替え立直し、即ち五六七の世の実現の思想なり、右はもとより単な
る精神的なことをいうに非ず、現実の政治、経済革新の思想」と。
だから天皇に不敬であり国家変革の思想だというのである。これは
宗教の存在を否定する暴言といえよう。宗教が神の愛をとき神の理
想とする世界を地上に実現しようとするのは当然の使命である。当
局が大本を不敬とし邪教とする根拠は、明治憲法が規定した「天皇
ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」、および旧刑法の「皇室に対する罪」
にある。明治維新後支配権力は、天皇を「現人神」として宗教的権
威をつくりあげ、最高の神、絶対者として民衆にのぞませた。そし
て「宗教の教理が時の支配権力や国家組織と相容れない場合、又は
当局の忌避にふれるが如き内容をもつときは邪教」と断定するとい
うのである。
 正しい神を否定し神のうえに人為の権威をおく者こそ「不敬」で
はないのか。信仰者にとって不敬とは、「神への不敬」をいみする
ことはいうまでもない。大本事件は第一次、第二次ともに免訴とな
り当局の意図は挫折した。だが上告審の判決で治安維持法違反を
無罪としながら不敬を有罪とした事実をかるくみることはできない。
前後十六年におよぶ法廷闘争は一応の結末をみたが、はたして支配
権力とのたたかいはおわったのであろうか。
 今日も青くはれわたった空を白い雲がゆったりとながれていく。
あの雲のようにしずかな平和が、このまま世界の空に、綾部の町に
大本のうえにおとずれてくるのであろうか。

目次 ↑ ←151 152 →153