国家権力とのたたかい
 天王平らが薄暮のなかにうかぶ。そこは由良川にそそぐ田野川のほ
とり、上野町と田野町のさかいにある丘である。くれなずむうすや
みのなかで、突如むせびなく声がもれる。かみしめても、かみしめ
ても、唇をわってこみあげてくる悲しみといかりの声である。ふき
あげる涙をぬぐおうとはせず、人々の手によって開祖の柩は木馬に
うつされ、竹レ−ルの上をしずかにすべる。足どりは重く、二百メ
−トルにもみたぬ道のりが地の果てにまでつづく思いであったろう。
開祖の柩は共同墓地の小さな片隅にうつされ、もとの奥都城はあと
かたもなくこわされた。昭和十一年五月のことである。
 昭和十年十二月、当局は再度の弾圧を大本にくわえ、「地上から
抹殺する」と豪語して破却の第一槌を、こともあろうに開祖の墓に
むけてきたのである。「官憲をごまかして人夫にやとわれ、開祖の
柩を信者の手でおうつしできたことがわずかな安らぎでした」とか
たる回想に、当時の苦心のほどがしのばれ新たないかりがわきあが
る。死者の霊を手あつく葬るのは日本民族の伝統的美風であり、墳
墓をゆえなくあばくことは国の法律がかたく禁じている。官憲だか
らといってこのような暴挙がゆるされてよいものだろうか。しかも
これがはじめてではない。大正十年の第一次大本弾圧のさいにも当
局は再度にわたって改築を強制し、これが三度目である。
 第一次弾圧では本宮山の神殿がこわされ、王仁三郎以下三幹部が
検挙されたが、第二次弾圧は徹底していた。総元締めの内務省警保
局長が自らのりこみ、全国に指令して「塵一つのこさずやっつけろ」

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