神的統一」をめざして蒙古の地に布教の駒をすすめた王仁三郎の行
動は、その具現化の一コマであり、大正十四年六月、「人類、国家、
宗教等総ゆる障壁を超越」して「地上永遠の光明世界」の建設をめ
ざす人類愛善会の創立はその結実であった。この年には治安維持法
が登場して権力側の弾圧体制がスタ−トし人類愛、世界同胞などの
提唱は国家意識をあやまるものとして排撃された。こうした時期に
大正デモクラシ−の退潮に失望しつつあった民衆の期待をあつめて
世界的視野にたった宗教的平和運動がこの綾部からはじまったので
ある。
 開教三十有余年、「苦難の昭和」年代をまえに、大本の内外宣教
の体制はととのえられた。昭和三年三月三日、王仁三郎五十六才七
カ月にみちたその日を「みろくの下生」のときとして、大本の布教・
社会活動は、芸術運動をもその一翼にくわえはなばなしく開花した。
大本教団を軸に人類愛善会、昭和青年会、昭和坤生会、昭和神聖会、
明光社などが歩調をそろえて、「神にめざめよ」とさけび、荒れく
るうファシズムのなかで現状打破をめざして活躍したのである。昭
和十年には文教宣教の主軸となった「人類愛善新聞」(旬刊)は百
万部をこえ、活動範囲は中国、東南アジア、北・中・南米、欧州大
陸にまでおよんだ。各界の実力者や知名の士をはじめ、参拝者、修
業者がぞくぞくと綾部の町をおとずれ「出口王仁三郎聖師」を頂点と
した「皇道大本」は革新的風潮の中で一大勢力をなすにいたった。だが
ふたたび宿命ともいうべき弾圧がまちうけていた。

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