と思われる。 
 記録にない人、記録のうしなわれた人も多いから、それらをくわ
えるとかなりな数になると思うが、そのなかで浅野正恭、浅野和三
郎、高木、岩田、日野、矢野、栗原、岡田、木原、植芝、井上祥照、
小牧、井上留五郎、谷村、中野、桑原、湯川、桜井、今井、上西、
西崎、吉原をはじめ梅田常治郎、谷前貞義、後藤康仁、上倉三之助、
石井弥四郎陸軍大佐、飯森海軍機関中佐、福中鉄三郎海軍機関中佐、
糸満海軍機関大尉、篠原国彦陸軍大尉などの人々が職業と地位をな
げうって綾部に移住してきた。そのため大本周辺の上野町、新
宮町、本宮町などはあたかも「大本町」の観を呈し、朝夕の祝詞の
声にみちみちていた。かわったところでは今日の生長の家をきずい
た谷口雅春、神道天行居の友清天行(いずれも亀岡在住)などがい
るが、これらの人々がのんびりム−ドでやってきたのでなく、求道
の熱情にもえていたのだから周辺にあたえる影響も大きかった。
 このとき綾部に移住し、昭和十一年、第二次大本弾圧のため獄死
した岩田久太郎(石川県出身)をしのんで俳友の伴新圃が「突然晴
天の霹靂の様に鳴球(岩田の俳号)の綾部入りを聞いた。何でも鳴
球は”こうしては居られぬ”と云って何か差迫ったあるものを見つ
けたように綾部に走ったと風に便りに聞いた」とかたっている追憶
は、その当時の人々の心情をよくあらわしている。
 岩田は子規の門下のすぐれた俳人であった。蕪村の句「ほととぎ
す琥珀の玉を鳴らし行く」からとって鳴球、琥珀と号し仕事の余暇
をさいて自宅で会をひらいていた。島根県出身の湯川は大正天皇即

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