大蛇退治450周年 ハイキングの栞              登尾峠を歩いて城屋へ越える
                   城屋太鼓愛好会 会長 水野友晴  2004,2,1(日)
 大蛇退治450周年に向けてのハイキング参加ご苦労様です。
ここで城屋に残る伝説の一部と、ハイキング沿線を紹介しておきます。
 始めに森脇 宗波庄左衛門は単に森脇 宗波と呼ばれて伝えられています。
森脇 宗波は四国の高知県に、永禄(1558-1570)の頃三人兄弟の一人として生まれ、源氏の武士であり、「一色氏の遺臣」として、丹波を目指しましたが丹波はそのころ赤井悪右衛門が治めていたので、やむを得ず女布京田の境の、「白雲山」に山城を構え、真倉十倉京田七日市女布の五ケ村を治めていました。
 森脇 宗波には二人の男子と、一人の女子の併せて三人の子供がありました。
この内の一人娘が、縁あって何鹿(いかるが)の「赤井」家に嫁ぎ、弘治二年(1556)里帰りの途中、城屋の日浦ケ谷に差しかかったとき、蛇ケ池に棲むと云われる「大蛇」に呑まれ、一命を落としました。
 急を聞いた森脇 宗波は弓と槍を携え、馬に乗って娘が災難に会った、城屋日浦ケ谷に駆けつけ、槍を「槍立石」に立て大蛇を待ちました。
 突然に現れた大蛇に驚き、仁王立ちになった馬はその蹄の跡を二ツ、石に残しその付近一帯を「駒ノ爪」と呼び、森脇 宗波伝説の中心地として、今に伝えています。
 森脇 宗波は突然に現れた大蛇に、「二ノ谷」「一ノ谷」と「後退り」し、「隠れ迫」に身を隠し、逃げ惑う大蛇を追い、やっとの思いで「打つ腸」(内渡)辺りで、娘の仇を討ち、長々と「セノベ」に横たわる大蛇は、長さ5丈三尺凡そ16mもあり、「ホウギリ」にし頭部、中部、尾部に三断しました。
 伯父は帰りの遅い宗波を心配し、迎えに来たのが「伯父ガ迫」。
 三断した大蛇の頭部を、城屋に在った「雨引神社」(雨曳)に、中部を野村寺の「中之森神社」に、尾部を由里の「尾の森神社」に祀ったと云われています。
 また森脇 宗波は翌日城屋を訪れ、悪夢の様な出来事は「キノフ」(喜野尾)の事と、しみじみ思ったと云うことです。

奥城屋作業所 僅かな水圧でタ−ビンを廻し、作業を行った。タ−ビンは少し上流の発電所から貰い受けたのでは?作業を行う場合は、道を挟んで反対側の水路の水をタ−ビンに送る事から。今は全く使われていません。
奥山一号橋 作業場の前を真っすぐ行けば「奥山一号橋」(49年3月架設)、此の橋を渡り少し行って左に折れると「寺跡」「寺山」「古い墓地」「女布谷」。奥山一号橋を渡り、真っすぐ行くと「鳥ノ奥」。更に行くと「隠れ迫」。
河川管理標識 奥山一号橋北詰上流側に「二級河川高野川起点」の標識が在り、此の標識から下の高野川は、京都府が管理し、上流は舞鶴市が管理。
山の神 岩山の少し高い所に南を向いて祀られており、境内も殆ど無く登り口に一株の「楓」が在り、紅葉時には可成り美しい事で有名。城屋にはこの外「河原」「口城屋」の併せて三社の「山の神」が在る。
日浦橋 架設は昭和六年三月、可成り古い鉄筋の橋。
発電所跡 日浦橋を渡った右側のグリ−ンの瓦屋根の所、「和佐谷」家離れ。火力発電と夫れを補う火力発電があり、送電期間は大正八年九月から昭和五年一月までの、十年五ヶ月間。
 尚、雨引神社のお堂に、火力発電に使用した製材所の「鋸屑」等の書類が、残っています。
有害鳥獣捕獲檻 城屋には二基の捕獲檻が在り、6月1日から10月31日まで設置、平成15年度には二基で21頭の猪を捕獲、捕獲された猪は埋葬。
水田跡の杉の木 減反と高齢化、米の価値低下で水田の放棄。
第一駒ノ爪橋 昭和五三年九月架設。その下流に*第二駒ノ爪橋がある。
水力発電水の取り入れ口跡 凡そ1km下流の発電所まで水を流し、落差凡そ40mを作っていた。
奥の院 第二駒ノ爪橋を渡って、川に沿って上流凡そ200mの所に「奥の院」が在り、すぐ上流に「堰堤」が出来、水没を避け「一ノ谷」付近に在った銘石を、昭和三二年に現在の所に移した。銘石には「駒ノ爪」「槍立石」「兜石」「舟石」「駒繋ぎ石」の五銘石が在ったが、「駒繋ぎ石」は舞鶴市民会館の前庭に二ッの石と共にある。
 この辺の石は「欧穴」(おうけつ)が在り、庭石として「日浦石」と呼ばれ珍重された。
冬枯れで雑草は少ないものの、夏には近寄れない程に雑草が生えている。
堰堤 昭和34年に奥の院の上流に出来、下流の「土石流」などの被害防止。
一の谷 堰堤のすぐ上流の谷は二ッに別れ、真っ直ぐは「一ノ谷」、道は流れに沿って造林公社が作り、「二ノ谷」まで続く。
後退り 堰堤をすぐ左に行くと「後退り」
蛇ケ池 「二ノ谷」を過ぎ、道が無くなり「尾根道」を行くと目指す「蛇ケ池」に。
明治十五年の「村誌」に拠ると、「蛇カ池」は「東西三拾間、南北弐拾五間ノ池アリ、昔時大蛇潜伏して行人を害スル屡々ナリ・・・云々」
(大きさを換算すると東西54.6m、南北45.5m)村誌が書かれた明治十五年七月には、「池」としての機能は既に果たさず、池の中程に一本の杉の木を植えた。今では其の杉の木は巨木になっている。
森脇宗波の年代は全く合わない、因みに戒名は、森境院殿一叟善法居士 死亡の日時は、天文六丁酉五月二十二日 1537年)