クネ−ムをたてまつられたくらいで、大々的な文書宣教とあわせて
その反響は大きかった。とくに大正七年(一九一八)夏富山県滑川
にはじまった米騒動は民衆の運動として全国にひろがり大戦後の不
況もてつだって社会不安はつのった。こうした民衆のめざめを背景
に大本の予言と警告は全国に浸透し、とるもとりあえず綾部へ
やってくるもの、学業や家事をすてて綾部へ移住してくるものがあ
とをたたなかった。とりわけ軍人をふくめて都市農村部の知識階層
の参綾。入信が多かっただけに、その影響も大きく、大正九年にい
たる大本宣教の第一次黄金時代を形成した。しかしやがてそのこと
が権力のにらむところとなり大正十年の第一次大本弾圧事件をまね
くことともなる。

      
綾部の「大本町」
 今日の綾部市の人口は約五万人、町村合併で旧何鹿郡がそのまま
市に編入され、広さでは全国十指のうちにかぞえられるという。し
かし大正七年に出版された「蚕都案内」によると、当時の綾部町の
戸数は一二〇〇戸で人口は約八千人、区域も中筋・以久田・佐賀・
小畑・物部・志賀郷・吉美・西八田・東八田・山家・口上林・中上
林・奥上林の一三ケ村をのぞいた旧町区にかぎられる。
 いわば田んぼにかこまれたしずかな町で、鉄道もやっと明治四十
三年になって園部−綾部間が開通して京都とつながったくらいであ
るから、お役人の異動や出張・親戚や友人のほか町の外から訪れて
くる人も目立って多くはなかったろう。そこへ年二回の大祭や冠島
・沓島・弥仙山参拝のたびごとに全国からの信者が駅の出口からド

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