れ、当時で約一万人と称し、丹波霧の底ふかく沈潜していた大本教
団は、立教二十数年にしてようやく全国的教団としての地歩をきづ
きつつあったといえよう。蚕都・綾部はまた「金神さんの町」とし
て知られ各地からの修業者や参拝者、見学者も多くなった。それに
は明治四十三年に国鉄山陰線の京都−綾部間が全通したことがプラ
スしていることもみのがせない。一方教勢の発展とともに綾部の神
苑は活気ずき、最初の神殿完成についで金龍海の開掘、金龍殿(道
場、のち祖霊社)・統務閣が建ち、桑畑当時の面影を一新した。
 しかし教勢が拡大すればするほど官権の圧迫もはげしくなり、布
教活動や祭典を合法化するため大成教や御岳教の教会を併設し、ま
た祖霊をまつるため大社教の分社とするなどの苦心がはらわれている。

    
直霊軍の活躍
 大正三年(一九一四)に第一次世界大戦がはじまるが、大戦は軍
需景気をもたらし日本の資本主義は飛躍的な発展をみせる。しかし
その反面、社会の矛盾は激化し労働争議、小作争議がいたるところ
でおこり、物価は急騰して民衆の社会的不安はつのった。
 大正五年(一九一六)に皇道大本と改称し、この頃から直霊軍の
青竜隊(青年)婦人隊、白虎隊(少年)娘子軍(少女)が編成され、集
団による組織的布教が展開される。綾部の町を軍歌まがいの歌を高
唱してねりあるき大道布教がくりひろげられた。またその服装がふ
るっている。羽織袴にたすきをかけ、すげ笠にわらじ、脚絆という
いでたちのうえ長髪、手には旗や幟をおしたて太鼓をうち、団歌を

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