県で稲荷講社をひらいていた霊学者の長沢雄楯から習合的な神道説
と鎮魂の行法を学んだ。明治三十二年に正式に大本に入った喜三郎
は開祖をたすけ、警察からの圧迫をさけて布教活動を合法化するた
め稲荷講社所属の金明霊学界をつくった。そして翌年にはナオの末
娘すみ子と結婚して出口家に入り、のち王仁三郎と改名した。
 その後警察の執拗な圧迫と新しいゆき方にたいする内部の無理解
から、一時王仁三郎は綾部をはなれ、京都に出て神職の資格をとり
建勲神社の主典からのち御岳教に転じて同教の幹部となった。王仁
三郎の出てしまった教団は火の消えたような寂しさとなったが、王
仁三郎は明治四十一年に新たな教団づくりと教勢拡大への意欲にも
えて綾部にまいもどってきた。わずかな期間ではあったが関西の宗
教界を遍歴して多くの人々とも接し、視野をひろげることができた。
 その後の王仁三郎の教勢拡大への大車輪の活動は刮目すべきもの
であった。ひつような当局の圧迫のつづくなかで、明治四十一年(一
九〇八)金明霊学会は大日本修斎会と発展し、全国的宣教への体制
がつくられた。王仁三郎は鎮魂と文書宣教に力をそそぎ、「王の礎」
「筆の雫」「道の栞」「道の大本」などの教書を編纂するかたわら、
機関誌として「直霊軍」(のち敷島新報、神霊界と改題)を発刊し、
積極的に社会によびかけていった。そのため大正二年には印刷所を
綾部にもうけ王仁三郎自ら活字をひろい、油にまみれて機械をうご
かし先頭にたって督励した。宗教教団のなかでいちはやく印刷機械
まで設備して文書活動に力をそそいだ例は、当時としてまれなこと
であった。こうした活動の結果は会員の急激な増加となってあらわ

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