動と相まってはばひろく浸透していった。しかし日本における弥勒
信仰、メシア待望の思想は意識のうえでは低調で理論化されず、変
革的な思想へと結実するにいたらなかったといえよう。だが、幕末
から明治にかけて創唱された民衆の宗教にすくなからず影響をおよ
ぼしたことはまちがいない。ことに大本は「弥勒の世」への民衆
の願望と伝統をたくましく継承し包含して独自の発展の道をあゆみ
つづけてきたのである。

    
出口王仁三郎と教勢の発展
 北桑山地の水を集めて西流する大堰川は、園部町あたりで反転
し亀岡からは保津川となって嵐山にいたる。八木町は園部と亀岡の
中間に位して大堰川にのぞみ鮎がりでしられている。町のはずれに
農業灌漑用水のための虎天堰がもうけられているが、その近くの街道
筋に開祖ナオの三女福島久子が茶店を開いていた。開祖にかかっ
た神の「この神を判ける方(審神する人)は東から来られる」という
言葉を信じて三年間も気ながく待ちつづけていたのである。明治三
十一年(一八九八)のあつい日、陣羽織にこうもり傘とバスケット
をもった風変わりないでたちの青年がふと久子の目にとまった。待っ
ていた因縁の人とわかって、その年の十月にその青年は久子のすす
めにしたがい、綾部をおとずれ裏町(現在の若松町)の倉で開祖と
はじめてあった。この青年が出口王仁三郎であった。
 王仁三郎は幼名を上田喜三郎とよび、明治四年に京都府亀岡近郊
の貧農に生まれた。明治三十一年の旧二月に高隈山の修業で宗教的体
験をえた喜三郎は、病気なおしと幽斎修業をとおして布教し、静岡

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