社会の変動期のさなかに生まれたのである。ナオが後年述懐して「こ
の世にまずない苦労をいたした」とのべているが、その言葉を地で
ゆくように幼少のころから苦難の重畳する山なみが、ナオの前によ
こたわっていた。また「その年(天保七年)には昼夜降り通しにて
作物はとれぬ故、翌天保八年には金を枕にして国替え(死亡)いた
したものがたっぴつありたぞよ。因縁の身魂は生まるる年よりそう
した不幸の年に生まれたのである」(「経歴の神諭」)とも記され
ているが、その不幸と苦難は自然の悪条件と個人的環境だけがうみ
だすものでなく、むしろ支配体制の矛盾に源由するもので、民衆が
になわされた宿命的枷でさえあった。一庶民としての開祖の生誕は
民衆のくるしみと不幸を自分のものとして生まれ、たたかいつつ生
きぬき、やがて積極的にその解決をはかる救済者としてたちあらわ
れる運命的な出発点としてきわめて印象ぶかい。

    ナオと綾部
ナオは嘉永六年(一八五三)十七才のと
き綾部に住む叔母の出口ゆりの養女となっ
たが、このときからナオは出口家・綾部の
人となる。とくにナオの綾部入りは、ゆり
の非業の死ゆえに劇的であり運命的である
出口家の家系についてはさだかでない。丹
波郡丹波村真奈井で豊受大神につかえてい
たとも、雄略天皇の時代に伊勢国に豊受大
神を遷座したさい出口家の子孫の一部が神


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