はじめに
 綾部青年会議所が10周年記念事業で発刊した冊子「丹の国・綾部」の、故塩見清毅さんが書かれた[未来都市の論理「ふるさと」]を、パソコン入力しました。
 未来都市とは、自然と人間が真に調和する「人間調和都市」でなければならないこと。
 破壊されずに残った豊かな自然「ふるさと」を持つ「綾部」こそ、「未来都市:人間調和都市」建設の資格があること人間調和都市と広域圏との関係・・・
故塩見清毅さんの驚くべき先見性と、鋭い指摘のある論説です。
 広域市町村合併について論ずる皆様方は、一人残らず読んでください。

*綾部市市民憲章の全文は下記の通りです。
 この前文にある「自然と人間が真に調和する新しい田園都市の実現をめざして」の「新しい田園都市」とは、「人間調和都市」のことです。故岡 博先生の元で起草されましたが、当時として全く新しい概念である「人間調和都市」は、塩見さんの造語で、青年会議所内で使っていました。

 起草委員に加わった、JC・OBの塩見清毅、吉田藤治さんに伺うと、市民の憲章なので、苦心の結果「新しい田園都市」の表現で妥協(昇華)したと云われました。私は、ベ−ト−ベンの「田園」のメロディのイメ−ジですねと答えた記憶があります。

*綾部市市民憲章
  私たち綾部市民は、丹波の美しい山河と豊かな伝統を持つふるさとを誇りとし、郷土愛に燃え、自然と人間が真に調和する新しい田園都市の実現をめざして、ここに市民憲章を定め、これを守り実行することを誓います。
1 平和をねがい、祈りのあるまちにしよう。
1 自治を高め、心のつながりのあるまちにしよう。
1 教育をたいせつにし、文化のかおるまちにしよう。
1 環境をととのえ、健康のあふれるまちにしよう。
1 産業をおこし、豊かな暮らしのあるまちにしよう。
1 計画を定め、輝かしいあしたをひらくまちにしよう。
     (昭和49年[1974年]11月3日・市制定)

*昭和46年(32年前)のあなたの生まれた年に、発刊された「丹の国・綾部」に、広域圏と綾部のまちづくりについて書かれた、故塩見清毅さんの先見性のある論説をご紹介します。
 日本の未来予想について、ソ連邦の崩壊、パブルの時代とそれにつづく世界同時不況、21世紀は日本の時代といわれた予測は、夢・幻のごとくであったことなど・・、この論説以後の世界の経済社会の変化は、予測を上まわる現実があります。
 しかし、この「人間調和都市」の論説の基本をなす、都市と自然と人間の問題は、永遠の真理を説くものであると信じます。
 行財政上の問題として突然飛び込んできた、広域市町村合併について、いま私達は、どんな「まちづくり」を目指さねばならないかの示唆を与えてくれると思います。過日の若者の意見交流会で話された「アヤヒトの漢部郷」にもふれていますよ。

*先生には、すでに偉大な先覚者故塩見清毅さんの書かれた、この未来都市への論説を読んでおられると思います。
「日本海ベルト地帯の中心、日本列島の中心の近畿圏と重なる極めて枢要な位置、それ故にこそ真の意味の中心的な調和都市たり得る・・広域行政圏の構想が具体化したとしても、その中で割拠する個性偏向都市群(臨海工業都市、商業都市、農林業都市、内陸工業都市、観光都市等々)を、綾部はその調和性の故に求心的につなぐ中核都市として動きをなすに違いない・・」
 この時点で遅いかも知れませんが、市民の皆様にも、お知らせするべきだと思い、このHP版を作成しました。

*ここに、このHP収録版を、著作者である故塩見 清毅氏の、偉大なる御業績と先見性を再確認しつつ、先輩を偲び塩見清毅氏の霊に捧げます。

丹の国・綾部  別 話
未来都市の論理「ふるさと」

 此処では、本書全体がかもし出す「ふるさと」を概念的にとらえ、それが果たして未来的たり得るかの論議をすすめねばならない。一見それは、近代産業基盤をもたない衰微した過疎そのものとしてうつるかも知れない。

 事実、六〇年代における経済成長の恩恵は少なかった。しかし七〇年代に入りその極端な高度成長がその恩恵を独占した都市あるいは国土に、生態的な循環にまで影響を及ぼす「公害」を現象として、環境破壊を惹起し始めた。そのメカニックにして非人間的な動きは、確かに生活の物質的豊かさはもたらしたけれども、人間疎外と精神喪失という大きな犠牲代価を支払わねばならなかった。

 さて、このテ−マを追求していく前提として、日本の将来に就いての洞察がなさられねばならないが、この予測に就いては、ユニ−クにして正鵠を射ている木内信胤氏(世界経済調査会会長)の「日本減速論」を全面的に引用展開していきたいと重う。

 「日本の将来を語るにあたっては、特にそれがハ−マン・カ−ンであろうと誰であろうと先ず日本の過去十年なり、二十年なりの驚異的な生長実績を考え、次にそうあらしめた要因を数え、その要因にこれから大きな変化はないと見定めた上は、今後十年二十年同じ様な日本の高度成長が続き、二十一世紀には超経済大国として世界に君臨するであろうことは容易に推測出来る。そういう考え方に対して、特にそれがハ−マン・カ−ンである場合、その論旨は精緻であるから、敢えて異論はない。

 しかし日本を論ずる場合、外国人である彼の様な人が見落としている別個な要因が働く場合があると考えられる。それは、日本人の国民性の中に「何時でも大きく変わり得る」という特性があるからで、もしもその性質が発揮される事になれば、日本は一朝にして今までとは異なる道を歩き出そう。

 この日本人の可能性が顕著にあらわれた一例は明治維新である。その直前まで尊皇攘夷で固まっていた日本は、それが一度開国と決まるや一夜にして熱心な欧米文化の学徒となり文明開化に酔いしれた。今一つの大きな例は、あの終戦時の日本であった。一億総玉砕は決して嘘ではなかったのであるが、終戦と決まるやこれ又全国民はアメリカ一辺倒の姿勢となりエコノミック・アニマルにまで変貌したのである。この様な豹変の可能な国民は、全世界に日本人以外は絶無であろう」

 「ところで日本人は終戦後二十数年を経た今日、前記二例に較べば、多少小さくはあるが聊かそれに似た豹変を示そうとしている。
 もしそうだとすれば、今までがこうであったからというハ−マン・カ−ン流の経済大国論は全く通用しなくなるのである。

 では一体、今の日本のコ−スには、どの様な変化が起ころうとしているのか。それは今までのあわただしい性急な日本から、より静かな、より内向的内省的な日本となり、国民的努力の目標は例えば、公害の排除といった事がその主座を占める事になるのである。そして公害を排除しようとする気持ちは、自ら国土美化に通じるから、これからの日本人はその総力を傾けて、傷つけられた祖国の自然を復元し、進んでその美化を図ろうとするであろう。そしてこの様な志向は、実は日本人の本来の気質にピッタリなのである。

 戦後の日本人の願望は、ともかく物量を増大する事であった。当時文字通り飢餓の日本国民であったのだから、物への憧憬は当然のことであったし、極く最近まで豊かな物をさえ獲得すれば、大概の事は成就すると信じて来た。ところが(近年の先進アメリカの状況、最近の日本の状態を見るにつけて)物への執着のむなしさが次第に分かりかけ、「生きがい」の再検討をせまられて来たのである。

 物量が豊かな事は必ずしも真の幸福とは、つながらない。それどころかしばしば邪魔でさえある。例えば飯は三杯食べればそれでいいのであって五杯なら却って病気になるのと似ている。この様に「物」を幸福への手段の一ツと考えて、それ自体を目的と考えない事は、本来東洋では当然の思想なのであるが、明治以来の特に終戦以後の日本は西洋化する事、アメリカナイズされる事が、いわば至上命令、それ以外に生きる方法なしと信じられたのであった。勿論、西洋化、アメリカ化にも非常な長所があり、それ故にこそ今日の素晴らしい日本となったのでもあるが、一面それ以外に道を与えられなかったという意味で、一種の強制であったのである。この強制化の日本、それは本来の日本らしい日本ではなかった。

 今の日本では、この様な点に関する精神的自覚が次第に呼び起こされて来た。
 それと同時に、物質的経済的局面においても「限度に来る」という事が起こってきた・・・・・・。

 世の中の無限の経済拡大を夢見る人達は見るべきものを見ていない。そもそも拡大とは何のためか、拡大は拡大のためのものではない筈である。こうしてこれから歩み始めるのであろう日本は、欧米に師を求める訳にはいかない。始めて強制をはなれ、日本自ら独自の道を探し求めて歩む日本、解放された日本、即ち自由なる日本となるのである」

 又「世界的に物質文明が壁にぶつかり、これから人類が精神文明の方向にハンドルを切ることになる。この事は単に当て推量でなく理論的にもいえる」と立石一真氏(立石電機KK社長)は、自社開発の未来予測論「シニック理論」をベ−スに断言する。

 更らに「日本は西洋と東洋の接点に立って中道の歩みを進めて来た。唯心的といっても、中国の様に産業面での革命よりも先に文化革命を起こすという程極端でない。明治維新以来産業重点で、つっ走るかと思えば、早くも「生きがい論」が出てくる等、極端に流れる前に軌道修正をする国民性がある。中道というのは、追いかける時は一歩おくれるが、その先行者が壁にぶつかる以前にカ−ブを切れるという利点がある。 この事は、変化への対応という面で欧米人にない強味になるといえる」しかも、「結局精神中心の日本人に有利な時代を迎えようとしている」と。木内信胤氏とは、多少の展開の相異はあるにしても、日本人の可能性と日本の未来に就いては、全く同じ事をいっているのである。

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 さて、こうした日本の未来の上に立って、人間のすみか「都市」は当然「物」や「経済」の縦走構造でなく人間の心を中心とした、人間を解放する空間として見なければならないであろう。

 現実「ふるさと」は最近「家つき、カ−つき、ふるさとつき」といわれ、交通ラッシュ、交通禍、公害、住宅難等々の全く凄惨な都市生活で疲れた心身をいやしたり、盆正月には家族を連れて帰る「いこい」の場としてとらえられたり、更に又、所得が増え、余暇が増大する未来には、人間性を回復する旅行地としての評価も高まりつつある。ある雑誌は又「サラリ−マンが大都市から移動開始」と題し、「地方転勤や転職を希望する人達や、都会における仕事を投げ出しても田舎に帰りたいという人が激増し始めている。

 東京都人口統計係の調査によると、昭和四十三年度東京転入者七十万人、転出者七十四万人、はじめて転出者が転入者を上まわる人口逆転現象が起こった」と人口動態のUタ−ンの始動を論じている。

 人間は所詮自然的存在である。従って如何に科学技術が進歩し、物質文明を謳歌しても、自然人としての基本的摂理からそう遠くはずれることは出来ない。昨今のレジャ−やセックスやファッションのブ−ムは、一種のつくられた狂気さえ思わせるものがあるが、それでも尚、その根底にひそむ人間の自然回帰−−−ふるさと回帰への強い欲求を見逃す訳にはいかないであろう。

 工業化社会の中で、そこなわれない自然と過去のすぐれた文化のかおりにふれ、人間性を取戻すオアシスとしての「ふるさと」は今や脚光をあびようとしているのである。

 人間の生活機能として、自然的精神的充足と経済的物質的充足の二つの要素があり、元来都市は、この二つの要素を原始的にとりこんだものであったが、経済のあるいは物質文明の発達は、その二つの要素を分化させ、前者をおさえて後者が急速に膨張し、その結果が生態的環境破壊とまでいわれる都市の危機を生んだといえるであろう。

 都市の理想型、未来型としては、この二つの要素の見事な近代的調和−−−調和都市でなければならないが、極端に都市化物質化の進行した大都市には、これを求める事は至難である。その復元は無論の事、拡大均衡的調和もそのスペ−スの限界から不可能であろう。

 さて、人間調和都市の成立の先ず前提条件となるものは、当然の事乍らその都市を包む美しい自然の存在でなければならない。

 第二にその都市の歴史性である。この自然や歴史にひかれる由縁のものは、根源的不変的なものへの憧憬、永遠に対する人々の希求であり、うつろいゆく人間がうつろわない自然あるいは自然的なものに寄せる心情、そこにこの世の安住の地、憩と「やすらぎ」を求める人間の気持ちが強く働くのである。所謂それは「ふるさと」そのものであろう。

 この本源的なものをペ−スに、仕事−−−人間経済(くらし)が見事にミックスされた生活圏こそ、真の未来都市の型として断言出来るのではないか。

 こうした都市は、前にふれた如く大都市ではなく地方の中小都市、むしろ今まで「後進」あるいは「過疎」の汚名をこうむって来た都市に、従って本源的なものを逆に未来の前提条件として残し得た都市に、保存と開発といった姑息な二元的なものでなく、新しい創造という一元的な可能性があるといえよう。
 所詮、「先進」と「後進」の概念は相対的なものでしかない事に気付かねばならない。

 経済至上主義から人間主義へ、物から心への価値観の変化を大きくはらんだ未来社会の変革が予測される今日、後進都市の「開発されずに取残された」という宿命的制約条件と見られていたものが「破壊されずに残った」という成長条件への転化の可能性にひらけつつある事は決して不思議な事ではない。

 後進都市の開発戦略の視点は、後発利点の発揮であることに注目せねばならないのである。

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 ここで具体的な日本列島全体の動きを観察してみよう。
 「表」と「裏」、それは多くの場合、日のあたる場所と日のあたらない場所の別称である。

 所謂、表日本の太平洋ベルト地帯が、とりわけ東海道メガロポリスに象徴される巨大な経済集積ゾ−ンに栄光の変容をとげる裏側で−−−つまり、裏日本の日本海沿岸に接した一連の地帯は殆ど例外なく、過疎現象の加速に追われて既に二十年、この舞台裏をめぐっては、交通体系や情報通信網はいうに及ばず、その他の社会資本投資の軽重や、大規模な地域開発作業の格差が年一年と積み重ねられて来た。それは地域住民一人一人の格差を誘発、更に社会的生活環境の水準格差まで大幅に押しひろげ、亀裂化の状況を見せて来た。

 しかも問題は単なる格差にとどまらず、今度は逆に表日本では、日のあたりすぎから極限に近づいた人口過密、環境破壊とまでいわれる産業公害、等の過熱症状が、予想をこえて太平洋岸は正にスラム化すると呼ばれ始めた。並行して起こった前述の物から心への人間的根源的な流れが、スラム脱出を覚醒し、裏日本−−−日本海ベルト地帯へ大きく目をむけさせることになったのである。

 開発の遅れた、しかしいいかえれば自然というか人間の本源的なものというか、を残し得た日本海ベルト地帯に新しい価値をつくり出す。先進太平洋岸の二の舞をふむ事なく、観光によし農業によし、工業によし、住宅によし、教育によしの今となっては、その価値を保存して来た裏日本に、人間の生活優先の新しい調和のとれた生活圏の創造が呼ばれる様になった。正に日本海時代の到来でなくて何であろう。

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 日本の未来、未来都市の理想型、後進都市の開発戦略視点、日本海時代、といろいろな角度から論旨をかなり重複させ乍ら進めてきたが最後に、現実ふるさと綾部にせまらねばならない。

 綾部市は京都府のほぼ中央、東経一三五度十六分、北緯三十五度十八分に位置し、京都市から七十六粁、大阪から八十粁の圏内にある。
 市域は北に舞鶴市、西に福知山市と周囲二市四町と福井県に接する丹波の心臓部である。国鉄山陰本線は綾部駅で分岐し、宮津線、北陸線に接続、又国道二十七号線が市東部を、国道九号線が市外南部を走り、京都、大阪、舞鶴若狭、福知山、山陰を夫々連絡路としての役割を果たしている。

 市域は又中国山系の山々から流れる由良川及びその支流沿岸に形成された盆地にあり、面積の三分の二は山岳地で占め、特に東北部は五百米級の山が点在し、北桑田三国連山に連なり、中央部より南西に平坦な沃野が福知山盆地まで広がりを見せ、東西三十六粁、南北十六粁、総面積三百四十八平方粁、近畿七十八市中、三番目の広さを有している。

 人口は約四萬四千人を数える・沿革と歴史は、本書の第一話から第六話にわたる歴史を横割りにした物語と、フォトグラフィに見られる如く、古代、出雲文化圏の一つの大きな拠点としてひらけ、大和時代には「いかるが」(綾部市の旧郡名)富緒川(現在の安場川)等と奈良にゆかりの地名に象徴される様に栄え、大陸からの帰化人で綾織りに長じた漢人の集落漢部郷として登場以来、中世には中央貴族や社寺の荘園として富み、

 近世には小藩とは言え、九鬼水軍で有名な九鬼氏の善政の下に推移、明治以後アヤヒトの伝統が蚕都として復活発展、一方長く受けつがれて来た住民の心が、民衆の宗教大本となって結晶具現、昭和十年綾部の黄金時代をむかえるに至る。

 その後、大本教の弾圧、戦争、戦後の混乱と社会構造の激変、加えて日本列島を表と裏にひきさいた跋行的な経済成長により、止め様もない人口流出に見舞われ、明治末期の人口に逆行する程に落込みを余儀なくされ、尚この状態は傾向化されるかに見える。
 事実低生産の産業構造と伸び悩む市民総所得の中で、市財政は極度に窮乏化し、市も市民も綾部の将来を見失なおうとしている。

 しかし、此処で重要な事は、既に論じてきた様に、この「後進」の現状こそが逆に未来的可能性に置換出来る事を確認せねばならない。前述の日本の将来、都市の未来、後進都市の開発視点、日本海時代の到来等々の結論を想起すれば、その気になりさえすれば一転して、今こそ「ふるさと綾部」の出番である。と考えられるのである。

 即ち先ず、本書全体から感じられる、古く美しい豊かな自然と風土、更に掘下げて大和以前の出雲精神文化圏の一大拠点。住民の土着信仰の中になお生きる、天津神以前の国津神々の真の日本の原像としてのパタ−ン。

 その二つが長い風雪に耐え乍ら、地下水の様に脈々と継承され、人間を育て、文化を作り、遂には大本教の「世界の中心」発想。更には近年世界連邦都市の第一号宣言に見られる、その精神的な日本の中心的位置づけを想えば、日本のふるさととして、真の人間調和都市としての大前提は他に類例を見ないのである。

 この根源的基盤に立って、産業や教育や住宅等々の「仕事」「暮し」のバランスを考察して見ると、夫々にその未来的萌芽の可能性が多面的にある。

 その未来的展開論は別冊にゆずるとしても、例えば当然「ふるさと」は農業や観光を真の本源的意味で未来づけるであろうし、工業に就いても、日本の工業が従来の労働集約的、加工生産的なものを超えて、知識産業、装置産業に志向するとなれば、又教育や住宅の未来的環境を思えば「ふるさと綾部」はその基盤的条件を具備しているし、地域地場としても、日本海時代の到来を背景にすれば、丁度日本海ベルト地帯の中心であり、それが更に日本列島の中心近畿圏と重なる極めて枢要な位置にあるのである。

 それ故にこそ、大都市に、又他の都市には見られない、真の意味の調和都市たり得ると考えられる。従って、今はやりの広域経済あるいは行政圏の構想が具体化したとしても、その中で割拠する個性偏向都市群(例えば臨海工業都市、商業都市、農林業都市、内陸工業都市、観光都市等々)を、綾部はその調和性の故に求心的につなぐ中核都市として動きをなすに違いないと考察出来る。

 本論は、本書の「ふるさとへの回帰」と別冊の「ふるさとの具体的未来展望」の継手の役目を果たすものであるため、ある時は抽象に又ある時はメンタルに傾斜したけれども、所詮「物」から「心」への確証的な未来予測理論ドライブに沿って論じて来たのであるから、当然の論理に帰結したといえると想う。


補  論
 現在、「後進」と「過疎」故に、綾部の思想と生活がある種の諦観と沈滞に追いやられている現状は否定出来ないが、要は逆にこの「ふるさと」という未来都市論理の確認と、先取りする心がまえさえあれば、あとはテクニックというか、行政なら行政による調和のとれた集落と土地の再編成−−線引きであり、合意に立った社会資本の導入と参加等であり、容易に逆転するチャンスがあるのである。

 従って先ず、綾部のふるさと的価値が、未来都市たり得るという確認と、そしてその方向にむけての市民の意欲的な意思統一が大切である。

 このふるさと意識という前駆的精神面の開発が、眠っている綾部の赤々としたナショナリズムを覚醒し、そのプライドとエネルギ−が現実「ふるさと」未来都市を夢に終わらせる事なく、実現具体の原動力となるであろう。