はじめに                              丹の国綾部へ
足利尊氏公の像建立と綾部安国寺インタ−チェンジの開通が、1昨年の3月27日に行われました。桜と紅葉の名所として、全国からの多くの観光客で賑わう昨今ですが、その動きに、一層の弾みがつくことを期待するものです。
 戦国の乱世を生き抜き、混沌の中に秩序を築いた足利尊氏であり、今日の21世紀初頭の混乱を導いてくれる、なにか先人としての教訓を学べるのでないかと思われます。
 「丹の国・綾部」「第三話:足利尊氏とその周辺」を執筆いただいた、綾部青年会議所編集部員だった、高嶋善夫君に、収録(パソコン入力)をお願いしていたのですが、パソコン不慣れの故か進まないようなので、代行しました。
 この秋の10月18〜19日の予定で、「第19回全国足利氏ゆかりの会」が、ホテル綾部を会場に行われる予定で、綾部の文化財を守る会では、会報58号に、景徳山「安国寺晋山式に出席して」事務局長 四方續夫氏、また第18回「全国足利氏ゆかりの会出席報告」および綾部の文化財シリ−ズ第2回「安国寺」が安国寺総代の大槻正則氏の投稿で記載され、第36回春の研修旅行では「京都・足利尊氏ゆかりの寺院を訪ねて」が企画されるなど、今や尊氏の話題豊富の状況です。

 丹の国・綾部  第三話 足利尊氏とその周辺
 京都の西、老ノ坂、観音峠をいっきに越すとそこはもう丹波の国である。由良川にそい車で約1時間半、川の流れもゆるやかになり水をまんまんと湛えるころ、由良川が流れ、前方左手に大本みろく殿の大屋根が四ツ尾山を背にして立つのが見える、あやべである。
古代よりアヤビトの郷として栄えたところである。
 市街地に通じるあやべ大橋、丹波大橋を、左手にみながら、舞鶴港から北洋材を京、大阪へ運ぶトラックや磯釣り帰りの乗用車が突っ走る。平坦な道をしばらくいくと、小猫の背のような低い山が並び、その中に咲き誇る桜の繁みが目にはいる。桜にうずもれて安国寺本堂の草屋根がある。車の行き交う国道を避け旧道に入ると、川幅の狭い八田川を背に古い家並みが立ち並んでいる。参道は山に向かい、参道の中程に足利尊氏出産に使ったという産湯の井戸が格子囲いの中に古く苔蒸した姿で残っていた。竹やぶと紅葉が茂る中を、木洩れの日差しが落ちる石段を登り総門に立つ。弘化4年再建の木札が目につく、両脇に開かれた扉には、丸に二本線の入った足利氏の家紋二引両が入り、清楚ななかに格式高いものを感じる。弘化四年は天草の一揆や異人船が長崎におしよせた頃ではなかろうか、一歩門に入ると、小鳥のさえずりが冴え、一陣の春風に裏山の木の葉が波頭のように音をたて、天蓋のように庭一面に咲き競う桜がこぼれ落ちる。本堂は草屋根、華やかなものはなく、あたりの風景にふさわしく、質素な佇まいである。この安国寺は江戸享保二十年の大洪水で山津波がおこり、一山の殿堂ことごとく流失したが、寛保三年領主谷氏が、南北朝時代そのままに再現したという。
 草屋根の素朴な建物は、都から離れたふるさとの山村の風情にふさわしいのどかさがある。がらんとした堂は、広い土間に開け放された扉から光がさしこみ、正面仏壇の釈迦如来の顔に反射する。本尊釈迦如来は文殊、普賢菩薩を両脇立にし、快い調和を保って配されている。如来の顔はこちらを見下ろし、訪れる人にやさしく問いかけるように見える。堂内には平安初期の作で、恵心僧都の作といわれる木彫りの地蔵菩薩の半価像が安置されている。右手に錫杖、左手に宝珠を持ったお姿である。
 「行春や錫杖めして子安像」(奉納歌)嘉元二年、足利貞氏の妻清子が、この地蔵尊に祈り尊氏を産んだという。以来子安延命地蔵尊として、近在の人々に信仰され、遠く若狭や丹後からも安産の祈願に訪れる人も多いとか、いまも線香の香りが濃くただよっていた。ここ安国寺は綾部市安国寺町にあり、その昔、将軍足利尊氏が相模入道高時をはじめ、元弘以来の幾多の戦乱で死んでいった武者の霊を供養し、国土安穏の祈願のため全国に安国寺利生塔を設け、人心の安定を祈願したが、貞和二年、当寺は天庵妙寿和尚が景徳山安国寺として、丹波の国に開山したのである。
 景徳山安国寺は、足利氏の厚い保護を受け多くの寺領を与えられ、盛時には寺領三千石、塔頭十六、支院二十八を数え、全国安国寺の筆頭に置かれ、京都十刹に加えられたという臨済寺である。延文三年、尊氏亡するや遺骨が納められ、その七年後に妻赤橋登子の遺骨も納められる等、代々足利氏の崇敬と保護をうけてきた。足利氏の運命と共に当寺の歴史はたどってきたのである。しかし村人たちの厚い信仰の火は安国寺を往古の姿そのままに佳境に残している。
 この寺は、安国寺になる以前、光福寺と称し、開基、年号明かでないが、上杉氏の氏寺であったという。上杉氏は建長四年後深草天皇の頃、公家勧修寺重房が宗尊親王に従い、鎌倉武士となり鎌倉に仕えたことにより上杉の莊を賜ったという。本領の名をとって上杉氏と名のるが、後に重房の孫清子が足利貞氏の妻となり、当寺光福寺の地蔵尊に安産を祈願し尊氏、直義を産んだという。憲房は尊氏、直義の伯父にあたり、憲顕はいとこになる。その上杉の莊は今も綾部市上杉町として、広々とした豊沃の田畑が秋には黄金の稲穂を稔らせている。安国寺の北側になる。
 足利尊氏、彼は太平洋戦争が終わるまで要するに逆賊とされていた。戦後の正しい歴史の中で、その人間性を見直されようとしているが、逆賊としての、また冷酷な人間としてのイメ−ジがなかなか取り去られていない。
 尊氏は、武断一辺の武将ではなかったと思いたい。政治や軍事面で敵対することになった後醍醐天皇に対し罪業意識すらもち、清水寺に納められた願文「この世の中は、まことに、はかない夢のようなものです。わたくしに、仏心のおこるようにみちびいてください。後生をお救いください。なんとか早くうき世のわずらわしさから抜けだしたいのです。生きているあいだの果報はのぞみません。・・」を見ても、反乱に成功し、得意の絶頂にあるべき彼の願文と誰が想像することができるであろうか。安国寺創立、天龍寺創建に寄せられる尊氏の努力をみても、冷酷な武人の姿はみられない。むしろ人間的な弱さをもった実直な人物であったと思う。
 実直なだけに、長い政権の座に安住し、闘犬や遊興に耽り、治政をかえりみない北条幕府や、婆娑羅大名に反感を抱き、源氏の惣領として、またその幕府の治政に反感を抱く源氏一族の擁立により幕府に叛き、後醍醐天皇に順じたが、天皇の建武の新政に対しても、時代の流れに逆行する反動的な体制に叛かねばならなかった彼である。
 母清子の力が大きく尊氏の心をとらえているようだ。又太郎と呼んだ子供の頃から地蔵菩薩の信仰を説き、質素、倹約、物欲を戒め、そして正しく世の中を見る目を育てたのである。「意志強固にして、死をおそれず、つねに茫洋として笑みをふくんで、矢石の間に立ち、物おしむ気少しもなく、賊宝をみること土芥のごとく」とは当時の武士達の評価である。
 尊氏の生涯は、変革の激しい乱世に生き、天下統一の使命を果たすための戦いは、あまりにも孤独であったし、義満以降の権政は、尊氏の心をあまりにも傷つけたことであろう。
 今日の泰平の世にも、尊氏の生きた時代に似た世相を感じさせられるのは私だけであろうか。
   民をなで、くにを安らふ景徳の 大悲のひかり ここにをさむる
 補陀落山観音寺からはじまる、丹波の国三十三札所の最後の札所として、室町の頃より庶民の信仰を集め、桜や楓の名所として、丹波一円にその名を拡めた当寺は、いまも静かに国土安穏の灯をともしている。
 本堂の北側に紅葉の木美しく、開祖天庵和尚の遺骨を祀った御堂が建ち、その裏側には、歴代住持の墓がしめっぽい青苔の上に霊気を漂わせながら整然と並んでいる。時代の形の相違に興味を覚える。
 一つの塔だけが、小鳥のとまり場になるのか、はげた白粉のように白くなっていた。
   かなかなや尊氏母子の墓どころ
尊氏の墓は、山を背にし母と妻に抱えられる様にして六百年余りの間風雪に耐え、尊氏はここに眠るのである。供えられた一輪の花に、かぶさるように桜の花びらが風にゆられて落ち積もる。
  「ねんねしなされ、おやすみなされ」
どこからか子守歌が風に乗って聞こえてくるような幻覚におちる。ふとうしろをふりかえると、竹やぶの向こうに見える石段を赤子を抱いた夫婦連れが登ってくる。安産の御礼参りであろう。遠くなだらかな尾根が傾きかけた日差しに美しく見える。山の向こうは上林谷であろう。


          ********************** 君王山 光明寺 ***********************

 秋葉権現の古びた祠の前を通り過ぎると、段をなし重なる山田が谷川に沿って奥につづく。道がふたてに別れ、光明寺に通じる山道は鬱蒼たる杉や桧の木立の中に入っていく。山肌を熊笹や羊歯が被い、石清水がチョロ、チョロと音をたて山道を濡らしている。蕗の花が咲き、椿の赤い花が深い緑の中に美しい。
 道は急坂に険しく右に左に折れ登る。下の谷からうぐいすの鳴き声が幽かに聞こえ、石仏が木の根を枕に凭れるように立つ、山道を足を滑らせ、息を切らせ千体地蔵堂に辿りつくと、大木の繁みの間から、青空がのぞき、小さな堂に日が射し込む。頭上に啄木鳥が大木を啄く甲高い音がひびき、見上げる目に午後の日射しを浴びて朱色の仁王門が美しく山門の偉容を現し建つのが見える。
 両脇の金剛力士の顔が日射しに赤く照り凄んで見えるこの仁王門は、鎌倉時代に再建され、度重なる戦乱に耐えてきた三間二面の、二重入母屋造りで、赤青の彩色が美しく、往古の姿をそのままに保たれ、今は国宝に指定され訪ね見る人が多いという。
 塔門に入ると歴代僧都の墓石が並び、左側は谷を見下ろす視界がひらけもう尾根である。
 山上はさすがまだ肌寒く、桜の蕾もかたい林を、なだらかな登りの坂道がつづき、やがてこの寺の庫裡から飼犬の吠えるのが聞こえる。不揃いに積み重ねられた石段を一段一段登りつめて、光明寺境内に入る。
 山の中腹にある境内は、山側は大木が被い重なり奥山深く原生林がどこまでも続き、谷側は急斜面に谷を見下ろし、上林谷が一望できる崖上にある。
 静寂とした境内には、千手観音をおさめ、静かに扉を閉ざす本堂が、辺りを支配するかのように大きな屋根を広げて建ち、聖徳太子、聖宝理源大師を祀る開山堂、鐘楼、宝篋印塔が配されて建っている。
    この世をも 浮きも洩らさぬ しるしには
               わがかけすめる みたらしの水
と御詠歌ににうたわれる君王山光明寺は、仏教興隆の詔が出されて七年後、推古天皇七年、(西暦599年)に聖徳太子によって創建されたという古い寺である。
 白鳳元年に大和葛木山で呪術により、鬼神を操ったという役小角がここを訪れ修験道の道場としたとも伝えられ、本堂の裏山にある小さな行者堂には小角の霊が祀られている。
 三国岳の高峰が連なるここ君王山は、延喜年間に入り、密教道場の最適の場所として醍醐寺の開祖聖宝理源大師が荒廃した道場を再興し、大峯、金峯山と並び真言密教の道場とし、全国より多くの修験者を集めたという。山上山下に七十二坊を築き、上林七里ケ谷をその寺領に治めたという。
 冬雪深く背丈ほどに積もり、夏は熊笹や夏草が被い茂り霧が濃くあたりをつつむ。原生林の中を修験者達が峯から峯へと行場を巡ぐり、於与岐の弥仙山へと険しい道を求めた昔の跡を原生林は残している。
 大永年間の細川高国と晴元の足利二将軍を互いに擁しての内訌や、明智光秀の丹波平定の戦火は殆どの殿堂を鳥有に帰したという。
 しかし、大自然は今も上林谷を支配し、深閑とした山道や境内は、修験者を待つかのように大木や熊笹が繁り、色とりどりの花や木の実が四季の変わりをつげ、山鳥が美しい囀りを聞かせている。
 また境内より半里ほど奥に入ると、府下唯一の周囲十五米もある大橡の木があるが、あたりは樹木や雑草が人の行手を遮っている。
 遠く北桑に接する尾根に霞がかかり、したに上林川が西日を受け銀色の帯を細長く山あいに流れるのを見て急ぎ足で下山する。